暑い、晴れ

「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」を観る。
優れた写真を大量に撮影しながら発表せず、まったく無名のまま孤独に世を去ったアメリカ人女性のドキュメンタリー。女版ヘンリー・ダーガーのような。
この映画を作った青年がヴィヴィアン・マイヤーの写真をオークションで落札したとき、そもそもは自分が執筆していた本の資料写真を求めてのことだった。しかし改めて見て、その写真の持つ力に気付いた。撮影者が気になってググる。しかし驚いたことにまったく情報がない。これほどの写真を残しながら。埋もれさせておくには惜しい。Webに上げてみる。大反響が巻き起こる。一体彼女は何者だったのだろうか。写真家ヴィヴィアン・マイヤーの足跡をたどる彼の旅はそこから始まった。
住み込みの乳母だったという経歴をたどり、彼女に育てられた人々に接触し、ついにはフランスの田舎の村に彼女のルーツを見つけるまでに至る。
謎のベールをどんどん剥がしていくのはすごく面白かっただろうなと、そういう気分で前半は観た。後半はじょじょにきな臭くなる。彼女に虐待されたという女性。部屋に溜めこまれ家屋の外にも溢れる新聞の山、その新聞についての彼女の言動、晩年の様子などなど。決して世の中とうまく渡り合えない、何かが過剰な女性像。何よりも孤独な。親族もなぜか皆孤独な生涯を送っている。彼女を雇っていた女性が30年ぶりに道端で偶然彼女と行き会ったときのエピソードが特に胸をえぐる。
全編を通して、ヴィヴィアン・マイヤーの撮影した写真や動画がふんだんに出てくる。本当に、なんで発表しなかったんだろうと不思議になる、すごい写真の数々。発表しなかった理由は映画ではついにわからない。したくなかったのか。やり方を知らなかったのか。自信がなかったのか。親しい人や身内がいれば、手紙などで彼女の心のありように迫ることはできただろう。あるいは日記のようなプライベートな記録とか。
インタビューを受けた人たちの何人かは、彼女が生きていたらこうやって表舞台にさらされるのは断固拒否しただろうという意見。それがほんとうにそうなのかどうかももはや確認しようがない。けれど、その言葉で、こうやって興味本位で観ている自分の姿があぶりだされて恥ずかしくなる。私たちは写真だけ見て、写真の力に打たれてさえいればいいではないか。
ルーツとなるフランスの村での写真展には大勢の人が詰めかけた。ヴィヴィアン・マイヤーは孤独に生きて死んで、人として味わえた喜びはそんなに多くはなかっただろうとと想像してしまうのだけれども、かつて彼女に撮影された人たちが嬉しそうに思い出を語り合っている映像を見ると、何十年もたってからこんなふうに暖かな喜びを他人にもたらすことができて、ほんとうによかったねという心境になった。


何者でもない市井の人として生きながら、すごい作品を作っていたという部分に惹かれたのだった。そして、そういう生き方でもいいじゃん、自分もそれがいい、という気持ちで観た。自分のいまの状況を肯定してくれるものを求めていた。ヴィヴィアン・マイヤーはそれでいいのではなく、そう生きるしかなくてそう生きていた。重みがまったく違った。そういう意味でも恥ずかしい。


監督本人が演出過剰気味にしょっちゅう登場する。こいつで一発ビッグになってやるぜという下心を感じないでもない。


あとは、彼女のフランス語なまりについて、真逆の意見の人を交互に登場させたところが面白かった。「僕はそれで卒業論文を書いたんだから間違いないよ」と言ってた人が結局間違っていた。

ヴィヴィアン・マイヤーを探して [DVD]

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私のすることに対してさんざん文句を言ってきた人に対して文句を言うとき、相手がとても傷つくだろうなという罪悪感があってなかなか言えなかったのだが、言った。
考えてみれば、相手が傷つくことに無頓着なくせに同じことをされたら自分は傷つくというのは、ナシなのだ。