メモ

明け方にセク死ぬ。19歳だか18歳だか。
先週末から飲み食いもほとんどしなくなり、
この週末は抱き上げてもぐんにゃりと抵抗がなく温かい死体のようで、
よくよく観察しては胸の動きで生きていることを確認するような状態だったので、
いざ死体となっても、なんだか胸のあたりが少し動いて
呼吸をしているように見えるのだった。
「おつかれさん」という言葉がしっくりくる。


私は金曜日は友人と飲みに行き、
土曜日は朝から山登り、
日曜日はまたK駅に借りた部屋で友達と話していて、
その間に死んでもおかしくはなかったのに、
ちゃんと家族4人揃っているときに死んだ。


前の2匹と同じ寺へ、姉と車で焼きに行く。


毎回、途中にある小田急線の踏切で恐ろしく待たされるのだが、
高架になったばかりらしくてするりと通過した。
今日は信号運がとてもよかった。





焼けるのを待つ間、井伏鱒二の「荻窪風土記」を読む。
綱吉の時代、中野村から高円寺村にかけては犬屋敷として収容され、
「千匹、万匹を超える駄犬が飼育されたと言い伝えられている」というくだりに出くわす。
井伏鱒二はあまり動物が好きではなかったのかな。


火葬に来るときは毎回、
ホテル・ニューハンプシャー」に出てきたラブラドールの剥製を思い出す。


寺のシステムは少し変わったようだった。
値段も少し上がった。
前は焼けたままの姿のほかほかの骨を拾ったが、
今回はもう冷めていて、全部並べ直してあって、箸も使わず手で拾って、
頭骨とのどぼとけは向こうの係りの人が拾って納めた。



この大事な塊を炉の中で燃やすのはすごい破壊行為だと思う。
焼きたくなんかないが、ほっておくと腐るから焼く。
剥製という選択肢もあるが、
皮をはぐという破壊行為を経ることを考えると、これもまた抵抗がある。
武田百合子さんのエッセイで、剥製も火葬もだいたい費用が同じで、
飼い主の気が済む金額がこのぐらいなのだ、という文章があったことを思い出す。
土に埋めるのが一番しっくりくる。




獣のいない暮らしは小学校中学年以来だ。
これからどうなるのだろうかなあ。