母とはんこ屋へ。
別れて吉村宗浩さんといづみの展示を見る。
まあそういう心のゆとりができた。
どちらもすごくよかった。
吉村さんもいづみも、苦心しながら制作を続けて
しかるべき領域へ進んでいる。
自分と対比してしまう。


青山ブックセンター
岸本佐知子編訳の「居心地の悪い部屋」と
柴田元幸訳のサローヤン「僕の名はアラム」を買う。
「アラム」に出てくるのは貧しいながらも
愉快で幸せに暮らしている仲の良い一族で、
自伝的な小説家と思いきや、サローヤン本人は
ずいぶん過酷な育ち方をしたと訳者あとがきにあった。
だから「アラム」はサローヤンの理想の少年時代を
創作したものだ。
こないだ、絵と美の修了展の時だったか、
ちびまる子ちゃん」も「サザエさん」も、
描かれた家族は描いている本人の実際と
ずいぶんかけ離れているという話が出ていたな。


大塚英志「『おたく』の精神史」読み終わる。
タイトルよりも、筆者の自伝という印象がわりと強く残った。
少しは目から鱗が落ちたかもしれない。
最後の方は「隘路」という言葉がやたら出てきたな。
「言説」もよく出てきた。
本筋とまったく関係なく手塚治虫について。
「そもそもまんが表現は本来、キャラクターが「成熟」しない表現である。ミッキーマウスチャーリー・ブラウンが永遠に老いないことを連想すればそれは明らかだが、手塚治虫はこういったキャラクター的な体を「成熟しない身体」としてとらえてしまう視点を持っていた。(後略)」
というくだり、手塚治虫の漫画やアニメを見たときに自分が感じる何かヌメッとしたものの正体はこのへんかもしれない。肉体とは関係ないようなキャラクターに生々しく肉体性を感じさせられてしまうことの気持ち悪さ。
しかしそれを気持ち悪いと思うことは自分の問題。