マームとジプシー「cocoon」のこと

原作はひめゆり学徒隊をモチーフにした今日マチ子のマンガ「cocoon」。

マームとジプシーの舞台は今までに4〜5回観た。
どれも、普通の若者たちの普通の日常が軽く始まる。
普通の日常のどうってことない瞬間の、
普通の会話が、しかし何度も何度も繰り返される。
繰り返されるうちに、その瞬間が育って行く。
瞬間は瞬間ではなく、
過去が降り積もった山の
そのてっぺんだということが見えてくる。
更にその場面にいる人々それぞれに
過去の堆積があることも知らされて行く。
瞬間はもはや単なる瞬間とはとても言えなくなる。
更にリフレインの中で、
どうしたって観ている自分の時間の堆積も反応する。
反応するから、舞台を観ているんだけれども、
同時にいろいろな記憶と感情を掘り返している。
それでもう、なんかがむき出しのまま
舞台を観ざるを得なくなる。
もうあれだ、一言で言うと、大変。
観るって感じじゃない。
脳がじーんとなって、観終わるとくたくた。
マームとジプシーの舞台はそういうイメージだった。
そのくたくたが癖になっていた。


前半はこれまで通りのマームっぽい。
同じシーンが何度も何度も角度を変えて繰り返される。
切り取られた時間のそれぞれの気持ちが少しずつ立ち現れる。

特に、ほがらかな、騒々しい、さえずりのような、
「いっせーのせ!」が、何度も繰り返された。
それが後半ではまったく別の意味を持つ。
集団自決の掛け声だ。
「いっせーのせ!」。
少女だから。それは。他の言葉がないから。


後半の少女たちは軍に見捨てられる。
一方的な解散命令を受け、
砲弾飛び交う中を否応なく身一つで駆け抜けることになる。
地獄の中を、駆けて、
絶望して、いや絶望していなくても、
次々と脱落していく。
舞台の上を駆け巡り立ちすくみ倒れて行く姿を観ながら、
実際のその苦しみを想像する。
つとめて、想像する。
そこが、いけなかった。
想像しないと、その痛みも苦しみも味わえないということが。
今までのマームとジプシーの舞台だったならば、
そこはこじあけてきた、と思う。
もうなんか、どんどん無防備にされた。
そこを、理解しようと努力しなければいけなかった。
要するに入り込めなかった。

彼女たちはつらそうにしゃべるのだ。
当たり前だ、つらいのだ。
しかし、こちらの気持ちは醒めてしまった。
先に泣かれてしまって涙が引っ込むということはあるが、
そんな感じだ。

半端な気持ちで作ったのではないことは、知っている。
それはだから、ちゃんと受け止めないとと思って、
しかしやはり醒めたのは確かで、
そこが心残りだ。


他にも書きたいことはあふれているのだが、ひとまずこれで。


追記
●記憶に残ったせりふ
「私の手からもうせっけんの匂いはしない」
●両手を前に差し出して立ったままの男に
 女が抱きついてお姫様だっこ状態になって
 すぐ落っこちるという動きを高速で繰り返すところがあって、
 ピナ・バウシュの「ホテル・ミュラー」に
 まったく同じ動作が出てくるのだが、
 なにか特別な意味づけがあったのだろうか。