涼しいからの暑い、晴れのち曇りとか

夕飯を作りながら、昨日K子さんがよく聞いていると言っていた細野晴臣のラジオを聴く。実のお姉さんと娘さんがゲスト。姉弟で楽しそうに昔の話などしているのを聴いていたら悲しくなってきた。私がこんなふうに何か楽しそうに思い出を話しだしたら、こいつがまたくだらないことを言い出して自分に恥をかかせると言わんばかりの態度で、または記憶違いを断罪するように、姉は食い気味に否定したり打ち消したりするだろう。思い出を分かち合うのではなく、正しいことを知っているのは自分であるということを大事にするだろう。全然楽しく話せはしないだろう。

 

しかし、そうやって、こいつは劣っているし恥ずかしいが自分はちゃんとしていますという態度を人前で取るということは、このきょうだいは全然連携が取れていないということを対外的にアピールすることになると思うのだが、それでいいのだろうか。

 

最も近くに自分の価値観をぐいぐい押し付けてくる人間がいるストレス。

自分が心地いい状態にしたいという欲求があるからそう感じるのだが、それに固執するあまり関係性のドツボにはまり込まないようにしなければ。

母は母で、舟越桂新日曜美術館を見ていると、出てくる人の造作のことしか言わないのでこれまたストレス。かといって一人放置するのは良心が咎める。